「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ二・二○)
私は寺の一人娘として育った。
古い伝統の壁は厚く未来の道は闇だった。
身近に出合った死への恐怖と不安があった。
なぜ人は生き、死ぬのか、確かな答えが欲しかった。
真実の神はいるのかいないのか、答の見えぬ哀しさ、孤独、絶望が交錯した。
二〇歳の夏、泥濘の暗い谷間の底で、声無き叫びをあげた時、微かに響く声を聞いた。
細く柔和な声だった。
「わたしは、あなたを愛している」「わたしは、あなたと共にいる」。
声はすれども姿は見えず、不思議な一夜が明けていた。
脳裏に残る体験だった。
紆余曲折の月日が流れ、失意と挫折、火と水の難、事故災害、失明と車椅子、生命の危機を越えて来た。
乳癌の宣告を受けて、要手術、即入院を告げられたその戻り道、気の動転とショックのあまり、どこをどう歩いたのか定かではない。
気がつくと書店の中でページをめくっていた。
「見よ、わたしはあなたと共にあり、あなたがどこにいても、わたしはあなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」(創世記一八・五)。
一瞬遠い記憶が甦った。
その一節は若き日の夜、私の耳に響いた言葉である。
背筋に閃光が走り、手にした文字が震えた。
これこそ、真実の神に違いない! 岩石のような確信が全身に広がった。
ある午後のこと、散歩の途中でヒールの底がはずれて立ち止まった時、心が震えるように優しいオルガンの音が聞こえてきた。
目を上げると、小さな十字架が光っていた。
オルガンの音に誘われて戸口に立つと「ヨクイラッシャイマシタ」と言う片言の日本語とスコップのように大きな手で迎えられた。
顔いっぱいの明るい笑顔が、私の驚きを消し去った。
中に入ると木の長椅子が並んでいた。
正面の講壇を照らしているステンドグラスの光が眩しかった。
オルガンの音が止むと、金髪の女性が駆け寄ってきて私を抱きしめた。
外国流の挨拶であった。
この二人との出逢いは私の人生を変えた。
東西南北どの地にいても、生命の危険に出逢う時、必ず二人の助けがあった。
私の道の中にいつも二人の心が住んだ。
なぜなのだろう、人生の岐路に立つ度にその疑問が広がった。
とうとう私は二人に質問をした。「なぜ、どうして私の一番苦しい時が分かるのですか」、「タエコ、その答えは簡単な事です。タエコの事を祈ると、全てを知っておられる神様は一番必要なその『時』を教えてくださるのです。私達はその声に素直に従っているのです。その一言一言は、今でも私の耳に残っている。
出逢いというものは本当に不思議である。
この外国人夫婦は今、天国に住んでいる。
こうして私は本ものの神、イエス・キリストに出逢った。
闇から光に、失望は希望に、嘆きから喜びに、束縛から自由と解放へと変えられた。
百八○度の転回だった。生きる目的が定まり、死への恐怖は消えた。
聖書の言葉は私の道標、人生の羅針盤となった。
伝道の書に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とあるが誠にその通りである。
夫と一緒に洗礼を受けて一○年になる。
日々共に心を合わせ、祈る至福のひとときを感謝している。
威厳と優しさに満ち溢れる神、その聖らかな衣の中に全てを覆い包んでくださるお方、イエス・キリストの御臨在と、いつも傍らに寄り添い、暖かく励ましてくださるお方、聖霊の導きと助け無くして今日の私は存在しない。
「あなたはまえからうしろから私をとり囲み、御手を私の上に置かれました」(詩篇一三九・五) |