4.心のとがめから解放されて
槻間萬里(久留米キリスト教会員)
「北の果てなる こおりの山
 てる日にやくる まさごの原
 叫びもとむる 声ぞひびく
 迷いのくさり 解き放て」

ミッションスクールに行っていた母が、私の幼いころよく歌っていた讃美歌二一四番です。
私と妹は母に連れられて教会学校へ行き、そこで輝くような喜びに満たされたのを思い出します。
成人してからは宣教師や牧師の家庭集会に招かれ、教会へ通いやがて受洗いたしました。

妹は出版社に勤務し、私はアニメーションの会社に勤めました。
そこで夫と出会い職場結婚いたしました。
娘が誕生し、幸せな日々を過ごしていました。
夫は、フリーになり、図鑑や絵本のイラストレーション、アニメーションの背景美術を描いておりました。
忙しさもあって次第に教会からは遠のいていきました。
神様は試みを与えられましたが、私は正面から取り組もうとはせずに、いつか良くなるだろうと考えていました。

やがて息子が生まれて、新しい喜びが与えられました。
けれども考え方は自己中心に陥っていきました。
そして神様は、夫を取り去りました。
これは神の裁きではないか、健康に留意せずに夫を死なせてしまって、死ななければならなかったのは、私ではなかったかと思い悩みました。
このことを通してキリストの身代わりの死の意味を、理解することができました。
夫はクリスチャンではなかったので、神様に夫は今どこにいるのでしょうかと聞きました。
神様は「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
「彼の多くの罪は赦されています。というのは彼は多く愛したからです」と答えてくださいました。
それでは夫を死なせてしまった私の罪はどうなるのでしょうか。
どうぞ私の罪をお赦しくださいといのり続けました。
するとイエス様は「神様のなさることなのですから、神様を賛美しなければなりません」と語ってくださいました。
その言葉にいつまでも悲しみに沈んでいては良くないと思い、心に平安をもつことができました。

数年がたち、子どもの学校でいじめの問題が起きて、子どもに信仰をもたせなければならないと思い、子どもを連れてやっと教会へ行きました。
そこで牧師である宣教師に出会い、主に仕える姿を見て、キリストとはこのような人かもしれないと思いました。
神様は教会を離れていた時期を考慮には入れてくださいませんでしたので、ステップは高かったのですが、祈りの友を備えていてくださいました。そして、教会員の方から現在働いている文書伝道へと導かれたのです。
そこでは今までの歩みの全てが生かされ用いられ、益とされているように見えるのです。
私のような者が用いられるのは、何かの間違いではないのかと迷いながらも、どうしても平和を築いていかなければならないという思いに動かされているのです。

子ども達も成人し、文書伝道に召され、それぞれ良き伴侶が与えられて主と共に歩んでいます。
神様はやもめを顧みてくださる方なのです。
イエス様は、日々の歩みの中で語ってくださり、ご自身を現してくださるので、毎日がイエス様との出会いの日々であり、救いの日々なのです。
これからも主が共にいて導いてくださることを覚えつつ、歩んでいきたいと願っています。
(CLC みちしお提供)